17年ぶり!土屋礼央のオールナイトニッポンを聞いてくれたアナタへ

ギョーカイ話
スポンサーリンク

2022年11月26日、土屋礼央のオールナイトニッポンPremiumがニッポン放送でオンエアとなりました。まずはタイムフリーで聞ける12月3日までの間にぜひ聞いてください。話はそれからだ。

オールナイトニッポン55周年の特別記念番組枠

オールナイトニッポンが今年55周年ということで、過去にオールナイトニッポンを担当したパーソナリティが週替りで登場する「オールナイトニッポンPremium」。NACK5にTBSラジオにNHKラジオにと、各局で喋りまくっている土屋礼央さんですが、礼央さんのラジオの原点は2002年から始まった「土屋礼央のオールナイトニッポンR」でした。

そんな礼央さんが17年ぶりのオールナイトニッポンということで、当時のスタッフがスタジオに大集合したわけです。

僕は初回から最終回までADとして参加したのですが(2003年10月〜12月の3ヶ月は別担務)、この番組は4人のディレクターによって作られており、それぞれのディレクターによって番組の方向性が変わっていきました。

初代、ANN-RからCOM 森弘D(2002年4月〜2003年3月)
2代目、へっぽこ甲子園生みの親で今回の特番も担当 米田D(2003年4月〜2003年9月)
3代目、歌って歌って歌いまくった、内海D(2003年10月〜2004年10月)
4代目、奇跡の競馬当選!チャコちゃんこと松尾D(2004年11月〜2005年6月)

ADの僕から見たディレクターそれぞれを簡単にご紹介します。
まず前提条件として、僕はニッポン放送と同じフジサンケイグループの関連会社「サウンドマン」という制作会社の社員でした。今は「ミックスゾーン」という名前になりニッポン放送の7階に入っています。フジテレビと共同テレビの関係みたいなものですかね。
森さん、内海さん、松尾さんはニッポン放送の社員D、米田さんはフリーのディレクターです。

山をなめるな!高尾山ロケ(左が森弘D)

初代森弘Dは当時5年目、若手筆頭のイケイケディレクターという感じで、演出家肌。アーティストに近い方でした。僕から見ると2個上の先輩にあたり、たまたま同じ明治大出身。入社当時からあれこれお世話になりまくってました。礼央さんが最初のラジオで森弘Dと出会ったのは、人生のターニングポイントだったんじゃないかと思います。

左が米田D

米田Dは人情家。飯島愛さんのオールナイトニッポンもADとして一緒にやらせていただきましたが、パーソナリティやリスナーにとことん寄り添う方で、今や制作会社の社長さんになっております。後述しますが、今回の番組は米田Dの優しさで出来ていたといっても過言ではありません。

右が内海D 左はミキサーの市村さん

内海Dは常識人。制作部に来る前には営業部にいたこともあって、とてもちゃんとした人です。ディレクターってネジの外れている人が多いんですが、内海さんは大人だったなあ。とはいえ真冬の神社で合格祈願だ!ってレコーディング前の礼央さんに水浴びさせるんですけどね。その後みんなで銭湯入ったのはいい思い出です。3個上の先輩で、今は超一流企業ですごく偉い人になってます。この日も内海さんだけスーツでした。

朝5時からPSPを買うためにビックカメラ有楽町店に並ぶ松尾D

松尾Dは放送でも言っていましたが、この中で唯一ニッポン放送を辞めておらず、順当に出世なさっています。aikoのオールナイトニッポン、くりぃむしちゅーのオールナイトニッポンを始め、数々の番組で活躍されていたので、ご存じの方も多いのでは。東大卒でむちゃくちゃ頭のキレる方です。今はアンガールズさんのPodcast番組などを担当していらっしゃいます。

担当ディレクターと構成作家を軸にお送りした2時間

そんな4人のディレクターがそれぞれ土屋礼央とリスナーとどのように向かい合ってきたのか。当時のディレクターが代わる代わるゲスト席に座り、土屋礼央と当時の思いを語り合う、そんな2時間の構成を米田Dは用意しました。

詳しくはタイムフリーを聞いていただきつつ、Twitterで「#土屋礼央ANNP」のタグを追っていただきたいのですが、当時の思い出と裏話が満載で、リスナーの皆さんは当時にタイムスリップできたのではないでしょうか。

実は僕は収録当日にこの番組があることを知りまして「やべえ!番組の過去音源全部手元にある!」と慌ててディレクターに連絡。「○時に会議終わるので、ニッポン放送の受付に音持っていきます」とLINEを入れたところ、「スタジオにいるからよろしく」とのこと。え、敷居またいでいいの?(僕はニッポン放送を買おうとしたライブドアに転職して現在に至ります)

とはいえライブドアはLINEという名前に変わり、ついこないだもニッポン放送の地下にあるイマジンスタジオから佐久間宣行さんの生配信を2回やらせていただいたりもしています。

このとき取材以外では15年ぶりくらいにニッポン放送で仕事をしたのですが、まさか3ヶ月連続でニッポン放送の敷居をまたぐとは。しかも礼央さんのオールナイトニッポンとは。すごいこともあるもんだ。

当日は元ディレクターが全員揃ってゲストというところに、予定外に元ADが音源持って突然やってきたにもかかわらずいきなり参加させていただき、若いスタッフの皆さん、ミキサーの板倉さん、松尾さん、長濱プロデューサー、ありがとうございました。

そしてその予定外をアレンジして時間を作ってくれた作家天野さん、ディレクター米田さん、心底すげえなと思いました。さすがベテランです。

当時の思い出をちょっとだけ

礼央さんは放送で僕を「勝手に同期だと思ってる」と言ってくれていましたが、本当にそんな感じで、礼央さんは僕にとっても「戦友」です。年も近くて礼央さんが1学年上、RAGFAIRのおっくんや加藤さん、引地洋輔さんは同じ学年。僕が社会人になったのが2000年、礼央さんがRAGFAIRに入ったのが2000年、僕がLF+Rに異動になったのが2001年で、RAGFAIRのメジャーデビューが2001年。出会ったのが2002年春、というわけです。

そしてなんと、母の実家(おばあちゃんの家)と礼央さんの実家が同じ国分寺市で駅まで一緒というおまけまで付きます。ご近所だったんかい。

2002年の春はLF+R(夜帯)のADになり2年目。森弘Dが番組で話していたのでOKでしょう、当時オールナイト2部(オールナイトニッポンR)は、予算削減(生放送は深夜タクシー代がかかる)のために基本録音でした。その「基本録音」を逆手に取って、じゃあ録音で面白いことやってやる、オールロケだ!と異例のロケ番組「土屋礼央のオールナイトニッポンR」は産声をあげます。

初回はレインボーブリッジを歩いて渡り、高尾山で天狗の宝をダウジング、埼玉で海開きしてペットショップで大騒ぎ。「なんか面白いことやってる番組がある」と、番組ロケに同伴する録音ミキサーさんの口コミで、ジワジワと社内知名度を上げていきました。(その裏でRAGFAIRはオリコン1位2位独占とかやってるんですけど)。

今だからわかるんですが、礼央さんが追い込まれると本領を発揮するタイプというのは置いておいても、新人パーソナリティをロケで長回しして、めっちゃ編集に手をかけて面白いところだけ凝縮したら普通にスタジオで喋らせるより有利なんですよね。森弘Dの企画力と発想力はほんとすごい。その甲斐もあり、半年で1時〜3時の1部へと昇格します。

最初のディレクターが森さんでよかったなあ。編集むちゃくちゃ大変だったけど…。

スタジオに入ってからは勝手も違いしばらくは苦労しましたが、その後4人のディレクターと2人のメイン作家、4人のサブ作家(うち一人はRAGの引地洋輔さん)によって、放送終了から17年経っても思い出してもらえる番組になったのではないでしょうか。Twitterハッシュタグ「#土屋礼央ANNP」でつぶやいてくれたリスナーの皆さんの人生の1ページにオールナイトニッポンが刻まれていて、素敵な仕事をしていたんだなと、17年経って改めて感じました。

radikoでいっぱい聞いてね!

長々と書いてきましたが、僕の言いたいことはこちらです。

お友達に当時のリスナーさんがいたらぜひ教えてあげて欲しいのと、radikoの数字ってリアルに出ますから、タイムフリーがたくさん聞かれればニッポン放送の偉い人が「じゃあ次の60周年も」ってなるかも知れません。

番組のすべての素材はまた次の機会まで大切に保管しておきますが、また17年後だったら礼央さん63歳になっちゃいますんで、せめて50代でやらせてあげてください。次は新作ロケがいいな。

ぜひぜひアナタの思い出も「#土屋礼央のANNP」で聞かせてくださいね。

「土屋礼央のオールナイトニッポン」ADの田野でした。またいつか。

radikoはこちらから→https://radiko.jp/#!/ts/LFR/20221126190125

タイトルとURLをコピーしました